こんにちは
ジャレット・クロザウスカです
子供向けの絵本を書くのが仕事です
つまり 創造力を使って食べているわけですが
それを仕事として活かす前から
創造力にずっと助けられて
生きてきました
小さい頃から絵を描くのが好きでした
その頃 誰よりも尊敬していた
アーティストは 母でした
その頃 誰よりも尊敬していた
アーティストは 母でした
でも母はヘロイン中毒だったんです
親が麻薬中毒だと
チャーリー・ブラウンが一生懸命
フットボールを蹴ろうとするのと同じで
いくら がんばって 愛そうとしても
愛されたいと思っても
心を開くたびに失望させられるものです
子供の頃ずっと 母は刑務所に入っていて
父親もいませんでした
僕が6年生になるまで名前すら知らなかったんです
でも祖父母がいつも 側にいてくれました
母方の祖父母の
ジョセフとシャーリーです
3歳になる頃に養子として引き取られ
実の子供のように迎え入れてくれました
実の子供5人も育てた後にです
この二人は世界大恐慌の時代に育ち
80代になったところで
新しい子供を引き取ったのです
コメディー番組のテコ入れに
突然 新しい親戚の子が登場するみたいな
ひょんなところからきた子供だったんです
祖父母はあまり細かい事は気にかけず
どちらも毎日 タバコ2箱ずつ吸うんです
フィルターもつけずに
僕が6歳になる頃には
カクテルなんか注文させてくれて
ドライにツイスト ロック オンザ サイド
氷は別のコップにするのは
もっとお酒が入るようにです
でもとても可愛がってくれました
本当に愛情一杯だったんです
創作に取り組むのを
いつも支援してくれました
祖父も努力家だったからだと思います
工場を経営し そこで作業もし
祖母は専業主婦でした
でもそんな生活に
トランスフォーマーやスヌーピー
ニンジャ・タートルズに夢中な
子供がやってきたのです
僕は 本に出てくるキャラクターに のめり込み
キャラクターを友達と思っていました
子供時代の親友は
こういったキャラクターで
本の中から出てきたものです
マサチューセッツ州ウースターの
ゲーツ・レーン小学校に通い
良い先生に恵まれました
特に1年生の時の アリッシ先生は特別でした
今でも先生の 僕ら生徒に対する愛情を覚えています
今でも先生の 僕ら生徒に対する愛情を覚えています
僕が3年生のとき
人生を変える事がありました
作家が学校に遊びに来たんです
ジャック・ガントスという人です
本が出版されている
プロの作家が来て
彼の仕事について話をしてくれました
話を聞いた後 教室に戻って
彼の本の主人公の絵を
自由に想像して描きました
「あくたれラルフ」という悪いネコです
自由に想像して描きました
「あくたれラルフ」という悪いネコです
すると突然 あの作家が教室にあらわれ
机の間をゆっくりと
黙って 一人ひとりの絵を見ながら
歩いて来ました
僕の机の横まで来ると
突然 ぴたっと足を止め
机をトントンと指で叩き
こう言ったのです
「こりゃー いい猫だ」(笑)
そして また去って行きました
この二語が
僕の人生を変えてしまったのです
3年生を終える前に
初めて本を書きました
『だれよりも飛べると思ったフクロウ』です(笑)
ギリシャ神話を書くという宿題で
伝説を作って書けと
だから僕はフクロウの話を書きました
飛行レースでヘルメスに挑戦する話です
フクロウは ズルをし
ギリシャの神のヘルメスは怒り
カンカンになって
フクロウを月に変えてしまいます
フクロウは 残りの人生を月として生き
夜に家族や友達が遊ぶのを見ながら
人生を送ります
いいでしょう (笑)
きちんと奥付のページもつくりました
著作権は大事だと
8歳ながら思っていましたので
(笑)
この本は言葉と絵を使って書かれています
現在の僕の仕事そのものです
時には言葉だけに物語りをゆだね
また 時には絵に物語を伝えさせます
また 時には絵に物語を伝えさせます
特に気に入っているのがこの
「著者紹介」のページ (笑)
特に気に入っているのがこの
「著者紹介」のページ (笑)
きちんと 三人称で
自分の紹介をしているんです
子供なのに
特に最後のところが気に入っています
「彼はこの本を書くのを楽しんだ」
いろいろ想像して書くのが
本当に楽しかったのを覚えています
「書く」とはそういう ものなんです
書くというのは紙上で
想像力を膨らませることですが
最近 学校を訪問して危機感を感じるのは
子供たちが 書くということが
想像力を使う事だとは
全く思いもしないということです
学校で文章を書く機会があればの話ですが
本を書くのが大好きで
学校から家に帰ると
紙を束ね
ホッチキスでとめて
真っ白いページを
文と絵で埋めたものです
空想を膨らませるのが
とにかく大好きだったんです
作ったキャラクターが
友達となり
卵やトマト レタスやかぼちゃ
みんな冷蔵庫の街に住んでいます
冒険してオバケ屋敷に行くと
そこには危険が沢山待ち受けています
粉々に切り刻もうとしてくる
悪のミキサーとか
パンの夫婦を誘拐しようとする
悪のトースターとか
友達を熱で溶かそうとする
悪の電子レンジ
その友達は 実はバターなんです(笑)
マンガも書きました
文と絵を使って違った形で
話を伝えるものです
文と絵を使って違った形で
話を伝えるものです
6年生になると
ウースター学区全体の
美術の予算がカットされ
ウースター学区全体の
美術の予算がカットされ
毎週あった美術の授業が
月2回になり
月1回 そして
遂には無くなってしまいました
祖父は頭がいい人で
これは問題だと気が付いたのです
これが無くなったら 僕には何もなくなってしまうと
スポーツはしないので
美術が唯一の楽しみでした
祖父は ある晩 僕の部屋に入って来ると
ベッドの脇に座って
「ジャレット もし行きたかったら
ウースター美術館の教室に 通うといい」
ほんとうに嬉しかったのを覚えています
その後 6年生から高校卒業まで
週に1回 2回 時には3回
美術館の教室に通いました
絵を描くのが好きな仲間に囲まれ
情熱を共有できる友人たちと過ごしました
初めて出版された作品は
中学の卒業アルバムの 表紙のデザインでした
初めて出版された作品は
中学の卒業アルバムの 表紙のデザインでした
学校のマスコットが
なぜ こんな服を着ているかというと
当時 ベル・ビヴ・デヴォーやMCハマー
バニラ・アイスにはまっていたからなんです
今でも カラオケに行って
「アイス、アイス、ベイビー」なら
歌詞を見ないで歌えます
のせないで下さい 歌っちゃいますから
卒業後は私立の高校に進学しました
中学まではずっと公立でしたが
地元の高校で誰かが刺されて殺されたのを
なぜか祖父はとても気にして
その学校には行かせたくなかったようです
私立に行くにあたって 選択肢をくれました
共学のホーリーネームか
男子校のセント・ジョンのどちらかです
さすが祖父です
いかにも僕が選んだような気にさせて
僕がセイント・ジョンを選ばないだろうと
はじめから分かっていたのです
そんなわけでホーリーネームに進学しました
新しい学校に慣れるのには苦労しました
スポーツはやらないと お話ししましたが
この学校はスポーツが盛んだったんです
でもシラール先生の 美術室が救いでした
そこで色々な事を学び
大きく成長しました
毎日 あの教室に行くのが楽しみでした
どうやって皆と友達になったかというと
先生達の面白い似顔絵を描いて(笑)
授業中に回したんです
高校1年の英語の授業中
隣に座っていた友達のジョンが
うっかり大きな声で笑ってしまったんです
グリーンウッド先生は むっとしました(笑)
グリーンウッド先生は むっとしました(笑)
僕が問題の根源だとすぐにつきとめ
人生初めて廊下に出されました
「ああ どうしよう
おじいちゃんに叱られる」
先生は廊下に出てくると
「紙を見せろ」と
「やばい ばれた」と戸惑いながら
仕方なく描いていた絵を渡しました
数秒の沈黙の後
先生が口を開きました
「君 、才能があるぞ」(笑)
「実にうまい 学校の新聞が
漫画家を探しているんだ
君がなったらいい
でも 僕の授業中に絵を描くのは やめてくれ」
両親にもばれずに済み
怒られも しませんでした
ケイシー先生に紹介されました
学校新聞の顧問です
そこで卒業するまで
学校新聞のイラストを担当しました
テーマはとても複雑なもの
例えば 上級生は意地悪だとか
新入生はダサイとか
プロム行くのに
なんてお金がかかるのか… 等です
校長先生の風刺もしました
連載ものも やりました
主人公はウェスリーが
どうしようもない恋に落ちる話ですが
これは僕ではないと
断言したのを覚えています
でも 今言ってしまうと
実は僕自身の話だったんです
でも本当に楽しかった
いろんな話を書いて
好きな事を思い付いて
それが学校の新聞に載り
会った事もない人たちが
読んでいるんです
自分の考えを 印刷されたページで
伝えられるなんて
考えただけでも わくわくしました
14歳の誕生日に祖父と祖母が
最高のプレゼントをくれました
製図台で 今でも使っています
20年たった今でも
毎日その机に向かって
仕事をしているのです
14歳の誕生日の夜に
この机をもらって
皆で中華料理を食べました
フォーチュンクッキーの中の紙には
こんな運勢が書いてありました
「仕事で成功するでしょう」
この紙を机の左上に
テープで貼りました
ほら 今でもここにあるでしょう
祖父母には何かをねだった事はありません
実はふたつだけ…
偉大なるハムスターのラスティー
小学校4年生の時買ってもらって
長い良い人生を生きました
(笑)
それから ビデオカメラ
どうしても欲しかったんです
クリスマスプレゼントに欲しいと
何回も頼んだ結果
中古のビデオカメラを買ってもらいました
それでアニメーションを作り始め
自分で演出して
高校にいる間ずっと
自作のアニメーションを作ったものです
高校2年の時 英語の先生を説得して
スティープン・キングの『ミザリー』の
感想文を書く代わりに
短いアニメーションを作りました(笑)
漫画も沢山描きました
漫画を よく描いていた頃
ウースター美術館で
ある先生から人生で
最も大切な事を習いました
マーク・リンチという素晴らしい先生で
今でも親しくしてします
僕は14歳か15歳
漫画教室の半分ぐらいが経った頃
わくわくしながら授業に行きました
マーベル風コミックの描き方 という本を持って行ったんです
スーパーヒーローの描き方や
女の人、筋肉の描き方
エックスマンでもスパイダーマンでも
それらしく描く方法が載っていました
エックスマンでもスパイダーマンでも
それらしく描く方法が載っていました
それを見た先生の顔から
血の気が引くのがわかりました
僕の顔を見てこう言いました
「この本から習ったことは全部忘れなさい」
僕が戸惑っていると
「君はいいものを持っている
自分のスタイルを認め
他人の描き方を真似するな
自分のスタイルを貫いて 磨きをかけるんだ
君は本当に才能があるんだから」と
教えてくれました
十代の後半は誰でも
気にならない事が色々あるものですが
17年間 ヨーヨーの様に
僕の人生に出入りを 繰り返す母や
顔も知らない父を持ち
本当にムシャクシャしていました
17歳の時 初めて父に会い
同時に弟や妹がいる事を知りました
父に初めて会ったその日に
ロードアイランド・デザイン学校から
不合格の通知を受け取りました
唯一 行きたいと思っていた
大学だったんです
そんな時 キャンプ・サンシャインで
一週間ボランティアとして働き
すばらしい子供たちに出会いました
白血病の子供たちで
エリックという子が僕の人生を変えました
エリックは6歳になる前に
亡くなりましたが
今でも僕の心の中に生きています
この経験と美術のシラール先生が
持ってきた絵本がきっかけで
この経験と美術のシラール先生が
持ってきた絵本がきっかけで
「子供の絵本を作ろう!」と
子供向けの本を書き始めたのです
高校を卒業する年でした
後に ロードアイランド・デザイン学校 に合格し
2年生から編入し
ものを書く事について
受けられる授業は全て受けました
在学中に巨大なオレンジナメクジの話を書きました
ある子と友達になりたかったのに
のろいので 駄目だった話です
出版社 十数社に本を送ったのですが
どの会社からも断られました
その頃 ホール・イン・ザ・ウォール・
ギャング・キャンプという
重病の子供のためのキャンプでも働いていて
その子たちが僕の本のファンでした
僕の作品を読み聞かせすると
喜んで聞いてくれたんです
RISDを卒業し
祖父母も喜んでくれました
ボストンに引越し 作業場を整えました
スタジオを構え 出版されるよう努力しました
本を送ったり 編集者や美術監督者に
何百枚も絵葉書を送りました
本を送ったり 編集者や美術監督者に
何百枚も絵葉書を送りました
でも返事は返ってきませんでした
祖父からは毎週電話がかかってきて
「ジャレット どうだい
仕事は見つかったかい?」と訊かれます
大学教育に 多額の投資をしてくれたので
心配して当然です
「仕事はあるよ 絵本を書いているんだ」
「でも 誰か金を払ってくれるのかい」
「まだ いないけれど そのうち
きっといつか成功するよ」
週末にはホール・イン・ザ・ウォールで働きました
起業にお金が必要だったんです
キャンプには たいへん落ち着きのない子がいて
「おサル君」とあだ名をつけました
帰宅後『おやすみ、おサル君』
という 本を書き
これが最後と決め
出版社に絵葉書を送りました
すると ランダムハウスの編集者から
メールが届きました
タイトルに「ステキな作品ですね!」
びっくりマークつきです
「ジャレット様 絵葉書受け取りました
イラストが気に入ったので
あなたのウエブページを見てみました
お話も書くんですか?
とても良いイラストで
何かストーリー性がありそうです
ニューヨークに来る機会があったら
是非ご連絡ください」
なんと ランダムハウスの児童書の編集者からです
翌週 ニューヨークに行く用事が「偶然」あったので(笑)
翌週 ニューヨークに行く用事が「偶然」あったので(笑)
この編集者と会い
契約書を手にニューヨークから帰ってきました
『おやすみ、おサル君』は
2001年6月12日に出版されました
地元の新聞はこのニュースを賞賛し
地元の本屋は大騒ぎし
本は売り切れになりました
ハッピーな「お通夜」に来たみたい
と友達が言いました
親族や知人が列に並び
僕に会いに集まっていたからです
もちろん 死んでなんかいません
本にサインをしていたんです
祖父母は皆に取り囲まれ
とてもにこにこ 自慢げでした
アリッシ先生やシラール先生
ケイシー先生もいました
アリッシ先生は列に横入りして
先頭まで来ると
「読み方を教えたのは この私よ」と自慢しました
その後 すごく嬉しい事がありました
心に残るファンレターの第一号をもらったんです
この子は「おサル君」が大好きで
誕生日に「おサル君」のケーキを頼んだんです
2才にとっては 刺青を入れるくらい
深い意味があるでしょう(笑)
誕生日なんて1年に1回のものですから
それも たった2回目の特別なものです
この写真を見て思いました
「この出来事を永遠に覚えていてくれるだろう
家族のアルバムを見るたびに
いつまでもこの写真があるのだから」
僕も写真を額に入れて目の前に飾り
それを見ながら 何冊もの本を執筆しました
これまで出版した絵本は10冊になりました
『パンクファーム』 『バッグヘッド』
『紫色の象 オリー』
グラフィックノベルの
『 給食のおばさん』シリーズは
9冊目を描き終えたところです
給食のおばさんが 悪と戦う話です
低学年用の本
『カモノハシ警察隊: 鳴いたカエル』も
もうすぐ出版されます
国中いろいろな学校を訪れ
沢山の子供に「いい猫だ」と伝えてきました
紙袋をかぶった 本物の
バッグヘッドたちにも会いました
給食のおばさんは会うと
とても親切にしてくれます
このように有名になれたこのは
子供たちのお陰です
『給食のおばさん』シリーズは
3・4年生向けの本のカテゴリーで
「今年最高の児童書」賞を2回 受賞しました
賞を取った作品は
タイムズ・スクエアの
電光掲示板に映し出されるんです
『パンクファーム』と『給食のおばさん』は
映画化が進んでおり
つまり僕は映画プロデューサーです
あの高校1年のときにもらった
ビデオカメラのお陰です
あの高校1年のときにもらった
ビデオカメラのお陰です
『パンクファーム』の誕生会や
『パンクファーム』のハロウィーンの仮装や
『パンクファーム』の子供部屋
こんな部屋で育った子は
将来どうなるのか ちょっと心配ですね
心に残るファンからの手紙をもらたり
すごい作品をもらったりします
一番感動したのは
去年のハロウィーンの事です
ベルが鳴ってドアを開けると
仮装した子供たちがいました
僕の絵本のキャラクターに変装して
うれしかったです
祖父母はすでに他界しましたが
祖父母を記念する奨学金を
ウースター美術館に設立しました
難しい状況にある子供達で
授業を受けるお金もない
子供達のための基金です
美術館で展示会があり
十年間の作品が展示されました
誰が見に来てくれたと思います?
アリッシ先生です
先生に「お元気ですか?」と訊ねると
「まだ 生きてるわよ」と答えが返ってきました(笑)
そう まだお元気で なによりです
でも 何が 人生で最高かというと
今 一番大切な事は
父親となり
かわいい娘が二人いるんですけれど
創造性を引き出す環境で
子供達を育てることなんです
家中どこの部屋にも本が置いてあります
子供部屋の壁には絵を描きました
庭のテラスに顔を描いて遊んだり
ふとした瞬間に創作意欲がわくものです
庭のテラスに顔を描いて遊んだり
ふとした瞬間に創作意欲がわくものです
僕が20年愛用している
あの机で遊ばせたりもするんです
僕が20年愛用している
あの机で遊ばせたりもするんです
ありがとうございました(拍手)