これは中央銀行がもつ支配力をテーマとする映画である。 中央銀行は経済 政治 社会を変える権力をもつ。 それはこのようにして行われる... パールハーバー - 1941年12月7日 リチャード・ヴェルナー教授の著書に基づく 帝国軍万歳!… 監督 マイケル・オズワルト 円の支配者 中央銀行と 経済の変革 私はアメリカ国旗に 忠誠を誓います 原子爆弾 アメリカ軍による占領 9時30分 横浜到着予定 当初の予定通り 上陸する ダグラス・マッカーサー元帥が横浜に近い厚木海軍飛行場に到着したのは 1945年8月30日のことだった 航空機から現れたマッカーサーは タラップを降りる前に立ち止まり 片手をポケットに入れ コーンパイプをきつく咥えて 自分達が征服した地を見渡した このポーズはカメラマンたちが様々なアングルから撮影し 各紙でこの好場面が何度も繰り返された 民主主義が日本人に植えつけられようとしていた まるで初めて耳にする話であるかのように。 (ニュース) 問題は日本人の頭の中身だ 彼らの脳は私たち同様によく働くが 中身の良し悪しは 頭の中で考えていることによって決まるのだ 忠義なサムライを演じる歌舞伎は 禁止されるか 厳しい検閲を受けた 広島や長崎の原爆に関する本や映像も禁止 マッカーサーを風刺した漫画も禁じられた 占領軍による検閲に言及することも 厳格に禁止されていた 戦犯法廷:委員会は被告を有罪と判決し 絞首刑を宣告する 山下大将は裁判は公正だとして委員会に謝意を述べた 太平洋戦争の際首相だった 東条元帥は公判中次のように答えた 日本国の臣民(自分)が陛下のご意思に反して かれこれすることはありえぬことであります 反対尋問は即座に打ち切られた 一週間後、東条は律儀に述べた 「天皇は常に平和を愛し平和を欲していた」 と。 (ニュース) 東条英機元帥は 戦争遂行の責任を負っていましたが、 天皇の戦争責任を免除するためできることは何でもしました 後にマッカーサーはアメリカ上院でこう述べた 「現代の文明から見ると 日本人は12歳の子供のようだ。」 あなたは知らないことに興味がおありですね 神秘的で説明のつかないことに興味がある だからここにいる... 戦争が終わると 銀行の貸付状況は悪化していた。 銀行が保有する資産は、主に戦時国債と 戦争で破壊された諸産業への貸付金だった。 銀行部門自体が事実上破産していた。 この問題は日本銀行によって容易に解決された。 日本銀行は、銀行部門の不良債権を 新たに創造した準備金を使って 買取りさえすればよかった。 しばしば無価値となっていた資産と引き換えに良貨を与えたのである。 終戦後、まず2人の中央銀行総裁が、 アメリカ占領軍によって任命された。 最初に任命された日本銀行総裁は、 新木栄吉(あらき・えいきち)だった。 だがこのポストに就くとまもなく 新木は戦犯検事によって起訴され、 辞職しなければならなかった。 そして1951年、 公職にあった戦犯容疑者に対する大赦の後、 新木はアメリカ合衆国大使に任じられた。 1954年、大使としての職を辞して帰国すると 新木は再び中央銀行総裁の任につけられた。 1951年に行われた戦犯に対する特赦の後、 戦時中の官僚の多くが 戦争当時の地位に復帰した。 この中には戦時中の政治家や 内務省官僚の大半が含まれていた。 彼らは思想警察を統制していた者たちで その多くが文部省に異動した。 アメリカ陸軍:極東の運命の鍵は日本だ 近代史の流れで今再び この言葉が差し迫った現実味を帯びている 田園地域での騒乱を避けるうえで これは中国共産党の助けとなった。 アメリカは大土地所有者から小作人への 土地の再分配に着手した。 財閥と呼ばれる 日本で影響力をもつ資本家エリート [支配層] は 犯罪的な戦争の支持者達として一掃され ビジネスを続行することを禁じられた。 ドイツで戦争が行われた1930年代に改革主義派ファシスト官僚にも 実施できなかったファシスト政策を アメリカ占領軍が達成したのです。 土地改革や財閥に対する政策もこれと同様でした。 そうですね、これは戦時中の日本のファシストたちと 米ニューディール政策推進者とのとてもこっけいな出会いですね。 占領終結後の政治体制 (ニュース) 国会、日本の衆参両議院の本拠 日本では、狂信的な学生と左翼グループが 数日間ぶっ続けで暴動を起こし、 アメリカとの相互防衛条約を阻止しようとしています。 社会党議員が国会自体の内部で騒動を起こしました。 警察は秩序を回復するため 社会党員をも強制退去させました。 (ニュース) 議長が演壇に連れていかれ、 条約を批准する国会の開会を宣言しました 1957年、 元A級戦犯容疑者の岸信介が 日本の首相になった。 彼は戦時中、 東条内閣の商務大臣だった。 その職責の範囲は 軍需品の調達から奴隷労働に及ぶものだった。 ヒットラーの戦時経済担当相だった アルバート・シュピアが ベルリンのシュパンダウ刑務所に収監されていた当時、 同じく戦時に日本で大臣を務めた人物が首相になったわけです。 岸は戦後、民主主義の擁護者となったが、 戦前と戦時中は 自分を国家社会主義者と名乗っていた。 暴力団からの資金、 企業からの出資、 CIAの裏金を使って 岸は自由民主党を 強力な政治装置に築き上げた。 日本では、 戦後の経済・政治の最も重要な指導者達の多くが 戦時中のエリート官僚グループの出身だった。 つまり日本を戦争へと追いやった同じ人々が 戦後の経済界、政界で 再び指導者となったのである。 自由民主党は ほぼ40年の間、政権政党であり続けた。 (ニュース)アメリカの軍人さん達に日本語でお帰りなさい! 韓国での勤務期間を経て 兵士達は日本の基地に戻ろうとしています。 ほんのしばらく前まで彼らは 占領軍として駐留していました。 今度はどうやって戻ってきたかって? 兵士達は占領国の人々にどのように迎え入れられたでしょうか。 人々を支配する権力者としてではありません 敵対者としてでもありません 不信の目で見られ、恐れられ、腹立たしく思われる人達としてではなく 友人として迎えられたのです。 戦時経済体制 東京千代田区 大蔵省所在地 ここから 大蔵省は日本の経済生活の大抵の面で統制を行った。 大蔵省は最も大きな権限を持つ 省でした。 日本銀行は大蔵省の指示を仰がなければなりませんでした。 大蔵省官僚を見ると、人々は沈黙のうちに 深い畏怖と尊敬の念のあまり嘆息した。 大蔵省退職者は 公立・私立の公共機関の長として影響力のあるポストに就いた。 だがある分野で 大蔵省は実際には統制を行っていなかった。 それは信用創造の量とその配分である。 これを決定するのは日本の中央銀行、 つまり日本銀行だった。 日本銀行は、大蔵省、 国民、ジャーナリストに対してこう言いました。 「私どもは金利によって金融政策を実施します。」 いわば大蔵省は日銀の上に 「君臨」 し 日銀の金利政策に介入しましたが、 日銀による事実上の 「統治」 は、 金利という通貨の価値ではなく 通貨の量を手段として行われたのです。 窓口指導: 中央銀行が市中銀行に対して 信用創造の増加と信用の配分を指図するプロセス。 これは窓口指導と呼ばれ、次のようにして行われます。 日本銀行は、市中銀行に対して 次の四半期にいくら貸出さなければならないか、 しかも誰に、経済のどの部門に貸出さねばならないか指図しました。 これは信用配分であり、信用統制です。 日本銀行は、四半期毎にそれぞれの銀行に 貸出額について指示をだし、 貸出がどの産業部門に割り当てられるべきかを指導した。 貸出はすべて産業部門・下位部門に内訳され、 大口融資先はリストに名前を載せなければならなかった。 日銀は、どの事業が推奨されるべきか、 またどの事業が推奨されるべきでないか 決めることができた。 これは、銀行が誰に、何を目的として貸出を行うことができるかを指図することによって行われた。 これは消費財の生産に適合した 戦時経済の体制だった。 (ニュース) 日本の9千5百万の人々は、 今やアメリカ合衆国と西ヨーロッパの 最も繁栄した国々に次ぐ国民所得を得ています。 これは資本家・株主にとって望ましい体制ではありません。 ところが国民にとっては多くの富が創出されました。 所得と富の配分がきわめて均等で、 非常に高度に経済が成長しました。 生活の質と水準がたいへん急速に向上しました。 1959年だけでも 経済は17%成長した。 だが戦時経済体制の一つの結果として、 産業部門のすべてにおいて、 競争は利潤のために行われるのでなく、 マーケット・シェアを目標として行われた。 企業はマーケット・シェアを獲得するため 破産するまで戦おうとした。 間もなく人々はこの現象を認識して 「過当競争」と呼んだ。 この問題を解決したのは、あからさまか否かを問わず、カルテルの創出である。 銀行部門では、 窓口指導がカルテルを統制するしくみとなった。 何故ならば日銀は、銀行の貸出件数と貸出額を 指図することができたからだ。 この結果、戦後期を通じて銀行の格付は 合併後を除いて決して変化しなかった。 ある銀行家の言によると 「もし窓口指導がなかったとすれば 我々は腹切りをするまで競争していただろう。」 戦時経済と国際貿易 (ニュース) 米国の経常収支の赤字は この9年間で最も大きくなっています。 この増加の大きさに多くのエコノミストが驚いています。 日本国内の競争はカルテルによって統制されていたが、 国際市場にはそのような制限がなかった。 日本企業はまもなく 世界の多くの市場で優勢となった。 米国では「日本の生産性 - アメリカにとっての教訓」という議題で 公式の議会聴聞会がいくつも開かれた。 主要な経済理論が示すところによると、 成功することのできる市場は自由市場だけだ。 だが日本は数十年で 世界第2位の経済大国となった。 これは自由市場にはたらく「見えざる手」だけを頼みの綱としたのではなかった。 日本の戦後経済は 国民を総動員した戦時経済であり、 生産の対象が武器から 消費財に転換されたものだった。 「日銀は鎮守の森のように 静かで目立たないほうがいい。」 ( 一萬田尚登[いちまだ・ひさと]第18代日本銀行総裁) 日銀が自由市場の擁護者として自らをアピールしていたため、 窓口指導はきまりの悪い代物だった。 公式刊行物ではこれに言及することができないか、 信用統制は「自主的」に行われるものだと称して その役割を軽く扱った。 大蔵省が日銀の信用創造と信用配分政策について 問い質(ただ)す時はいつも、 日銀の職員は、 専門家以外にはプロセスがわからないようにするため、 専門用語だらけの 複雑な議論をする習慣だった。 1965年11月、 第一回国債が市場に登場した。 これ以後 政治家たちが一層多くの資金を使いたい場合、 もはや日本銀行に圧力をかけるのではなく 大蔵省にかけたのだった。 ますます増える負債の山を最終的に統括するのは 大蔵省だった。 中央銀行家達による改革の要求 1980年代は、工業化社会で 金融緩和が行われた時期だった。 工業先進国の大半は、 資本の動きに対する制限を撤廃した。 日本では、 前日本銀行総裁 佐々木直 (ささき・ただし) が 日本経済の変革と自由化を目的とした 五カ年計画の実施を求めた。 次いで1986年、 前日銀総裁・前川春雄が座長を務める 経済構造調整研究会が、 日本人の生活水準が 一層西洋並みになるようはかる 経済改革計画 (「10年計画」) を提出した。 この提案によると 「今や我が国は、 従来の経済政策及び国民生活のあり方を 歴史的に転換させるべき 時期を迎えている。 かかる転換なくして、 我が国の発展はありえない。」 この「前川レポート」を読むと まるでアメリカ通商代表の要望リストのような内容だ。 まず行政改革を要求し、 官僚の権限を廃止することを求めた。 目ざすは、国家の政治体制を構成する 全国民の改革であり、 戦時経済体制を廃止して、 米国型自由市場経済を導入することだ。 諮問グループのメンバーで 異議を唱えた者達は 任を解かれた。 報道関係者のレポートは非常に批判的で、 この計画の内容が過激であることを評者達は認めた。 あまりにも野心的と思われ、 日本の経済、政治、社会体制の あらゆる部分を 無差別に変える 一つの革命を求めていた。 このレポートで何が望まれているかは明らかだったが、 これらの目標を達成するやり方について言及がないのは あきれるばかりだった。 レポートで唯一の手掛かりとなるのは、 「これらの推奨事項の実施にあたっては、 税制を含む財政・金融政策の役割が 重要」とされている点だった。 記録によると、 常に日本銀行は 日本の体制を完全に廃止し、 アメリカ型資本主義を 導入するべきだとしてきましたが、 国民がこの考えに賛成するかどうかはまったく別の問題です。 さて次の問題は、 どうやってこれを実行するかです。 大蔵省 [現・財務省] は 戦後期のほとんどの期間、合法的に主導権を握り、 官僚機構、政治家、既存のすべてのカルテル等が すでに定着しています。 これは古い体制ですが、 歴史が教えるところでは 体制が根本から変わるのは、危機がある場合に限られます。 委員会が提案したのは、 金融政策を利用して 大きな歴史的危機を進展させ 大蔵省、政治家、日本株式会社から成る既得権益を打ち破ることだった。 あらゆる体制には 当の体制から利益を得、 その変革を決して望まないグループがある。 おそらく世界には、危機なくして 経済・社会・政治体制を 大幅に変革した国は存在しない。 変革の必要を 市民と利益団体が納得するのは、 危機に直面する時なのだ。 どうすればこれを達成できるか? そう、だから危機が必要になる。 危機をつくる一番良い方法はバブルを起こすことです。 なぜなら、起こすのがバブルであれば、こちらの動きを妨げる者は誰もいないからです。 バブルの起こし方 日本銀行は 窓口指導の銀行貸出目標額を大幅に増やし始めた。 1980年代の貸出割当額の増加は 年平均でほぼ15%に達した。 後に都市銀行のある職員は次のように述べた。 「バブル期の間に私たちは貸出額を一定量増やしたいと思いましたが、 日銀は私たちがもっと多く使うことを望みました。」 . . . . 信用拡張は 不動産ブームの原因となっただけでなく 株式市場のブームを引き起こした。 1985年から1989年にかけて 株価は240%上昇、 地価は245%上昇した。 1980年代末まで 東京の中心にある皇居を取り囲む庭園の価額は、 カリフォルニア州全体と同じ額だった。 日本の国土面積はアメリカ合衆国の26分の1の広さしかないが、 日本の土地全体の価額は合衆国の4倍だった。 東京23区の1つ、 千代田区の市場価額は カナダ全体の価額を超えた。 エコノミスト達は、 市場の成り行きを真に受けるよう訓練されているので 地価の高さを正当化しようとした。 一部には土地の不足がその理由だと考える者があった。 光り輝く新しい企業本社が 東京の高級オフィス街に誕生した。 労働市場もにわかに活気づき 掛け値なしに深刻な労働者不足が懸念された。 最終学年の大学生を釣ろうとする企業は、就職の意図がある旨を署名させようと ホリデー・リゾートへの高価な旅に 誘うようになった。 政治家達にも、 大蔵省にも、この状況は好ましかったのです。 税の歳入額が上昇しました。 企業にもこの状況は好ましかった... バブルではすべてがすばらしかったのです。 . . . . . 資産価格と株価の上昇は止まらず、 従来の製造業者でさえ、相場に手を出してみる 誘惑には逆らえなかった。 まもなく投機そのものを取り扱うために、 大蔵省の財務部と理財局国庫課が拡張された。 財テクとして知られる 企業ヘッジファンドは 借入金を使って資産と株の投機を行った。 その熱狂ぶりは非常な水準にまで高まり、 日産のような 多くの自動車トップメーカーが 投機的投資によって儲けた利益は、 自動車の製造によって得られた額よりも多かった。 日本の新たな奇跡の経済を主題として 文字通り何千もの記事が書かれた。 誰もがよく知っている、エコノミストの説明は 生産性の向上と水準から 日本経済の印象的な実績が説明できる、というものだった。 日本的な経営管理手法に関する書籍が 国際的にベストセラーとなった。 西欧のビジネスマン達が サムライの戦略を主題とした17世紀の小冊子を読んだ。 ところが実は 1980年代の日本の非常にすばらしい実績は 経営管理手法とほとんど関係がなかった。 信用を制限し指導するために窓口指導を用いる代わりに、 巨大なバブルを生み出すために窓口指導を用いたのだった。 私は日銀の職員と銀行家達にインタヴューして調査を行いました。 双方ともテープに収録しています。 調査の結果、 日銀は実際に非公式な窓口指導を続けたことがわかりました。 実のところ、銀行に貸出額をこれほどにも増やすよう強いたのは 日本銀行だったのです。 日銀は知っていた。 銀行が貸出目標額を達成する唯一の方法は、 非生産的貸出額を増額することだと。 ある銀行家の言葉を用いるならば 「低リスクの借手に信用に対する需要がない場合、 貸出割当額をすべて消化したいと望むと、 リスクは悪化する。」 いま一人の銀行家は次のように述べている。 「貸出を増やす窓口指導のルールの副作用は、 貸出の需要がまったくない時も 銀行が貸出額を増やしたことだ。」 通貨の創造とバブル あらゆるバブルと同様、 日本のバブルが煽(あお)られたのは ひとえに銀行制度によって 新しい通貨が急速に創造されたことによる。 1986年から1989年にかけて 日銀の営業局長だったのは 福井俊彦だ。 これは窓口指導による各銀行の貸出割当額に 責任を負う局だ。 福井にあるジャーナリストが尋ねた。 貸し出しが急速に増えていますが... 「貸し出しの蛇口を狭めるつもりはないのですか?」 福井は答えた。 「金融緩和を一貫して続けるわけだから 貸し出しの量的規制は自己矛盾に陥ることになります。 だから量的規制をするつもりはない。 経済の構造調整を かなりの期間かけてやっていきながら 国際的な不均衡を是正していく。 金融政策はそれを支えることになるわけですから、 (私たちには) なるべく長く金融緩和を続けていく 責任があるのです。 そうすると金融機関の貸し出しが伸びるのは当然なのです。」 なぜ銀行はこれほど多くの融資を行っていたのか? それは日本銀行の命令によって そうせざるを得なかったからです。 通常 銀行は多くの融資申込者の中から顧客を選び かなりの割合で融資を断る。 だが1987年から 形勢が逆転し 銀行家のほうが 積極的に見込み客を追いかけるようになった。 銀行がまるで行商人のように顧客を追いかけ 格安の金利で融資を勧誘した逸話が たくさんある。 . . . . . 銀行家はますます地価の評価を 誇張して行うようになり、 貸付金に対する地価の実際比が しばしば300%以上に急増した。 一般の人々にとってこれは奇妙な現象だった。 ほどなく人々はこれを 「過剰資金」と呼んだ。 エコノミストや アナリスト、 金融市場や不動産会社で働く人々だけが 事情をわきまえていた。 あまりに簡単に割り切りすぎた分析を彼らは斥けた。 地価の上昇は 単に過剰資金によるというよりも はるかに複雑な理由によるものだった。 こうした業種の人たちは、 庶民には、ただ高度な財テクの複雑な仕組みが 分からないのだ、と主張した。 国際資本の移動 ある国が創造した通貨の量が多すぎると その通貨の一部は、海外へ投資という形で 流出する。 1980年代の 日本の資本の流れは 1980年に2億ドル以上(純額)が 国内に流入したのに対して 1986年には 1320億ドルが流出した。 美術品その他の貴重品を含む 世界中の資産が 日本のバイヤーたちの標的となった。 これにはロックフェラー・センター、コロンビア映画、 ペブルビーチ・ゴルフリンクスのような 知名度の高い購入物件が含まれていた。 驚くべきことに1986年に競売された アメリカ合衆国の長期国債の75%が 日本円によって購入された。 だが一国が紙幣を印刷するだけで 世界中の物件を買いたい放題に購入するというのは たやすくできることではない。 日本にこれができたのは 市場が通貨を切り下げなかったからだ。 それぞれの通貨の価値は 為替ディーラーによって決められる。 その際、彼らが観察する従来の経済指標が その国の過剰な通貨創造を捉えていない場合、 多額の通貨創造と これを外貨と交換しようとする試みが 影響を及ぼすことがある。 1950年代、1960年代に 米国の銀行はドルを過剰に創造したが、 この時に米国が使った同じトリックを 日本は成功させたのだった。 アメリカ合衆国株式会社は ヨーロッパの諸企業を買収するため このホットマネー [不正に得たカネ] を使った。 この時に米国が使った口実は 金本位制だったが、 日本の場合、口実となったのは多額の貿易黒字だった。 GDPを根拠としない融資: 財貨やサービスの生産を目的としない融資。 金融制度全体のリスクの増加を その初期に警告する指標として、 融資総額に対して GDPに基づかない取引を目的とする貸付金が占める割合がある。 この比率は、金融危機が発生しつつある 国々のほとんどで著しく高くなる。 1980年代と2000年代に アメリカとイギリスで 抵当貸付と住宅価格の急騰を刺激したのは このプロセスにほかならなかった。 これと同じプロセスはまた 黄金の1920年代を創出した。 この時アメリカの銀行は株を担保として貸出を行った。 原理は同じだ。 各銀行は株価を既定の事実と考え 新たに通貨を創造した。 株式市場で通貨量が増えると 株価は上昇しなければならなかった。 株価の一定の割合を担保として受け取れば 安全だと各々の銀行は考えたが、 すべての銀行が同じ行動をとることによって 市場全体が押し上げられる。 日本では、 民間部門が所有する土地の富が 1969年に14兆2千億円だったのが、 1989年には2000兆円に上昇した。 日本銀行第26代総裁 三重野康 (みえの・やすし) は 1989年、最初の記者会見で 地価高騰の原因として 「金融が片棒をかついでいることは否めない」 と金融緩和の副作用を率直に認め、 今後は個別の指導で不動産関連融資を抑制していくと述べた。 周囲を見回して、彼はバブル、 資産価値の上昇、貧富の格差の拡大に目を向け、 これを止めようではないかと言いました。 三重野氏は新聞や雑誌の記事で英雄になりました。 それは彼がこの愚かな金融緩和策に反対して戦ったからですが、 ところが本人はバブル期の間は副総裁を務め、 バブルの創出を担当していたのです。 相場の暴落 突然、地価と 資産価値の上昇が止まった。 1990年だけで 株価は32%下落した。 その後、1991年7月 窓口指導が廃止された。 これには、日本銀行で 窓口指導を担当していた職員自身が驚いた。 銀行家達はほとんど無力のまま取り残された。 もはやどのようにして貸出を計画すればよいかわからないと 彼らは不満をもらした。 かつてある銀行の支店が もっと多く融資したいと言う時には、 窓口指導の貸出割当額は使い果たしたと答えるのが常だったが、 この度はもはやそうすることができなかった。 バブルで融資された99兆円の大部分が 焦げつく可能性が高いことに 銀行が気づき始めると、 恐ろしさのあまり 銀行は投機家への融資をやめたばかりか、 他の誰に対しても融資を制限した。 (ニュース)日本では希望のないクリスマスが待っているようです。 月曜日、株式市場は 下落して過去2年以上で最低の終値となりました。 先週、日本の食品業者最大手の一つが倒産しました。 今年上場企業が倒産したのは これで9回目です。 5百万人を超える日本人が職を失い 就職先がどこにも見つからなかった。 20歳から44歳までの男性の死亡原因では 自殺がトップになった。 . . . . 1990年から2003年にかけて 21万2千社が倒産した。 同じ期間に 株式市場は80%下落した。 主要都市の地価は 最大で84%下落した。 エコノミストのある者たちはホッと胸を撫でおろしているように見えた。 景気の低迷は、煎じ詰めると 日本の経済体制がそれほど 成功していない証拠だった。 その一方で 日本銀行総裁、 三重野康(みえの・やすし)は語った。 「この不況のおかげで 誰もが経済改革を行う必要を 意識するようになってきた。」 救済措置の失敗 大蔵省は、 金利が主要な政策手段であると信じていたので、 日銀に金利を下げるよう圧力をかけた。 この結果、公定歩合は0.1%まで下がった。 ほとんどのエコノミストは、景気が回復すると予測した。 だが金利を下げれば成長が刺激され、 金利を上げれば成長が鈍化すると 金融新聞や中央銀行が 頻繁に主張したにもかかわらず、 経験上そのような因果関係を示す証拠は全く存在しない。 (ニュース)日米のビジネスマンがここで会合を開いています。 日本の企業からは円安を求める嘆願が出されています。 1ドルが100円以下で利益を出すことのできる日本の輸出業者は 全体のわずか6%しかありません。 収支を合わせるには、平均して1ドルが 117円超に上がることが必要です。 大蔵省は日銀に 大量の円を売り 米国ドルを買うことを求めた。 円の為替レートが下落し、 輸出が上向くようにするためだ。 大蔵省と日銀の 両者は、 実に折り合いがよくありません。 今月再び起こっているのは、 日銀が自らの介入を無効にしているということ、 正確に言えば、 大蔵省の命令による介入を無効にしつつあることです。 大蔵省は日銀に 米国債を凡そ200億ドル購入するよう指示しています。 ところがこの購入資金は 基本的に日銀が国の経済から得るカネなので、 不胎化されます。 大半の研究者は 不胎化された介入には効果がないことに同意しています。 日銀はまた不胎化を行っているのです。 このため介入には効力がなく、 円は現在まで依然として強いのです。 中央銀行はその資産を売却することによって国の経済から 通貨を回収することができる。 これは、資産を購入することによって国の経済に 通貨を投入することができるのと同様だ。 中央銀行が資産を売買すると、 国の経済を循環する通貨の量が増減するわけだ。 日銀の職員はこの点を無視し、 その代わりにこう主張した。 「この構造改革で 短期的にはデフレ圧力が生じるかもしれないが、 しばらくすればはるかに効率的な経済が生まれるだろう。」 この時、独立した立場にあるオブザーバーたちは、 国内需要は財政支出によって押し上げられなければならない、 そうすれば借入需要も高まるだろう、と提案した。 10年間、 政府は彼らのアドバイスに従って 政府債務を歴史的な水準にまで押し上げた。 1992年から2002年までの間に 景気刺激策が10回打ち出され、その総額は146兆円に達した。 (ニュース)リチャード・ヴェルナー氏は 東京のジャーディン・フレミング証券会社のチーフ・エコノミストです。 日本経済がどこに向かっているか、 ご意見を伝えていただきます。 日本政府は右手を使って支出を行い 国の経済組織に通貨を投入していますが、 資金調達は債券市場を通じて行われましたから、 左手を使ってその同じ通貨を国の経済組織から取り去ったわけです。 購買力は全体としてまったく増えていません。 ですから政府の財政支出には効果がないのです。 2011年までに日本政府の負債はGDPの230%、 世界最高に達しようとしていた。 大蔵省 [2001年より財務省] は万策尽きようとしていた。 オブザーバー達は不況の責任を大蔵省に負わせるようになり、 不況は日本の経済体制のせいだと唱える声に 耳を傾けはじめた。 だが銀行部門の不良債権問題と デフレを解決することは、 どれほど難しいことだったのだろうか。 結局これはそれほど難しいことではなかったことが分かる。 金融システムは、映画「キャッチ22」のようにいつもどちらに転んでも勝算がないように見えます。 貸出額の伸びがないので、経済は成長しない。 それで貸出額が伸びないので、経済成長はない。 さて、この循環論法を破ることのできるものが一つあります。 それは中央銀行です。 この状況での中央銀行の義務は、通貨を印刷することなのです。 中央銀行の権限 今私たちに必要なのはもっと抜本的な措置です。 その中には痛みを伴うものがあれば、 伴わないものもあります。 例えば中央銀行は、すべての不良債権をただ額面どおりに買い取ることができます。 これは日本が世界で最強の銀行を持っているということでしょう。 銀行部門を救済するため 中央銀行は新たに創造された通貨を使って 不良金融資産を額面通りに 買い取ることができる。 この場合は、資産が著しく減価していることがよくあるのだが。 これは日本銀行が戦後に行ったことだ。 もう一つの方法として、銀行を支援して相当な利益を得させ、 通貨を銀行に移転させることができる。 これを成し遂げるやり方の一つは、 中央銀行が市場を独占し、 一定の市場に実際にミニ・バブルを創出することだ。 このバブルで銀行は多量に出資するため 多額の利益が得られる。 これは結局、 中央銀行が自らの銀行制度を支援するために用いる 比較的ありふれたテクニックであることがわかる。 その他の提案としては、 銀行にリスクのまったくない借り手を紹介する措置や、 会計に別の計算方法を導入して銀行のバランスシートを改善することが挙げられる。 これは西側主要国では約20年後に議論されたことだが、日本では 当局と日銀が論陣を張って 納税者がつけを支払うべきだとされた。 富士銀行頭取(当時) 橋本徹氏: 去年の3月に 政府は日本のおよそ15の主要金融機関に 多額の資金を注入しました。 私どもはその一つでした。 これは不良債権を帳簿から消すのに役立ち、 キャピタルベースの強化にも役立ちましたから、 私どもには融資の準備ができると思われました。 これまで税金が、銀行の資本構成を変更するために使われてきた。 とはいえ、納税者が銀行の問題に対して責任があったという 証拠はない。 だからこのような金融政策がモラル・ハザードを引き起こし、 リスクに対する補償のために責任感・経営倫理が失われた可能性が高い。 通貨の供給は 銀行と中央銀行による 信用創造の純増加によって決まる。 モラル・ハザードのために 銀行部門が救済されないとなれば、 デフレと不況をなお回避できるのは中央銀行である。 この目的のために 中央銀行は通貨供給量を増やすことができる。 中央銀行は、 単に民間部門から資産を購入し、 新たに創造された信用を使って支払いをするだけで いつでも無制限に国の経済の 通貨量を増やすことができる。 たとえば日銀は 不動産を購入して これを公園にすることができる。 ここに、3つの問題を一気に解決する機会があります。 国の経済は信用創造を必要とし、 銀行は不良債権をなくす必要があります。 そして不動産部門には取引が必要です。 そのために中央銀行が紙幣を印刷し、 銀行から土地を購入して、 それを公園に変えれば、 日本人の生活の質の向上という 今ひとつの問題も解決されるのです。 たとえ日銀が後日これらの公園を 経費のほんの一部にあたる額で売却したとしても、 日銀はなお通貨を創造したことになる。 これは、そもそも日銀に 通貨を創造する費用がまったくかからないためだ。 国の経済に通貨を注入するための今ひとつの選択肢は、 量的緩和だ。 これらの選択肢がすべて使用できるにもかかわらず、 日銀はあらゆる段階で 危機を解決したであろう政策の実施を拒んだ。 私が1992年からその翌年にかけて 日銀に客員研究員として在籍していた時、 この不況はほんとうに悪化に向かっていると確信しました。 そこで日銀の人に誰と話ができるか尋ねようとしました。 なぜもっと通貨を印刷しないのかが疑問だったのです。 この問題についてとてもオープンな人に会って話をすると、 その人は言いました。 「リチャード、確かに我々はもっと多くの通貨を印刷することができたよ。 我々は経済の回復を創出することができたはずだ。 だがその場合、何も変わらなかったことになるだろう。 日本の経済構造は変わらなかったことになる。」 それでその時には、私にはまだ日銀が まさかあまりにも大それた構造変革を成し遂げるために、 本気で不景気をわざと引き延ばしているとは 信じることができませんでした。 塩川正十郎 (まさじゅうろう) 財務大臣は、日銀に対して デフレを止めるか、少なくともデフレと闘う手助けをするよう求めました。 経済を刺激し長期の不況を終わらせるために もっと多くの通貨を創造してほしいとの 政府、蔵相、総理大臣の要求に、 日本銀行は一貫して盾を突いた。 時に日銀は 国の経済を流通する通貨量を積極的に削減する施策さえ行ったので、 不況はさらに悪化した。 日銀の論法はいつも最後に同じ結論で締めくくられる。 つまり、非難されるべきであるのは 日本の経済構造なのだ。 日銀の職員達の論法によると、 大幅な金融緩和は 「構造調整の進捗がさらに遅れ」 「害になりかねない」とさえいうのだ。 戦後初期の日本の指導者たちは 自分たちが戦時経済を運営していることを知っていたが、 政治的な理由からそれを語らなかった。 冷戦期の政治宣伝では、 戦後の日本は アメリカ型の政治・経済体制を採用したといわれていた。 本当のことを言いたくなかった 戦後初期の指導者達は、 奇跡の日本経済の起源について 公にできない彼らの秘密を 語らずに世を去った。 1980年代から1990年代にかけて 日本を統治したのは、 自国の経済の真の性格と 本来望まれる目的を理解していない世代に属する 官僚・政治家たちだった。 このような世代の日本のエコノミスト達が丸ごと 米国に送り出され、 アメリカ型経済の分野で博士や経営大学院修士となった。 彼らが学んだ新古典経済学の前提によると、 経済体制には一種類のシステムしか存在しない。 つまり何の緩和策もない純然たる自由市場、 株主と中央銀行家が最高の支配者として君臨する自由市場だ。 多くの日本のエコノミストが、すばやく米国のエコノミストの議論をうのみにし、 受け売りでそれを繰り返すようになった。 大蔵省の解体 (ニュース) 日米保険協議が火曜日に2日間の日程を終了しました。 大手生命保険会社と それ以外の大手保険会社、 それに大蔵省の既得権を制するためには、 第1次産業部門の規制緩和が必要です。 これらの当事者は12月15日以前に合意に達する必要があります。 この日以後、米国は貿易制裁を課す恐れがあります。 アナリストたちが予想する主な解決の鍵は、不動産の証券化です。 詳細についてリチャード・ヴェルナーに聞きます。 意味のある証券化を行うには、規制緩和が必要です。 これはすでにご質問への答えになります。 規制緩和を達成するためには、大蔵省の権限を 縮小しなければなりませんが、 大蔵省がこれに抵抗していたことは明らかです。 1980年代に 名声ある大蔵省の名刺を持って 自己紹介することのできた者たちは、 沈黙のうちにも深い畏怖と尊敬の念から人々を嘆息させた。 ところが1990年代の中頃から人々の態度が変わり、 大半のオブザーバーには 大蔵省が不況を起こしたことは ほとんど疑いないと思われた。 大蔵省の庁舎の外では しばしば官僚たちの行動に嫌気がさした市民達がデモを行った。 1998年初め、 検察官が初めて日本の省庁の中で 最大の実力をもつ省を強制捜索した。 銀行と金融当局の両者が 彼らがとった行動に対して厳しい批判を受けた。 大蔵省の官僚と銀行家達の間に存在した非公式のつながりの一部が スキャンダルで浮き彫りにされた。 多くの銀行員とともに 一部の大蔵省官僚さえ 逮捕、収監され、 数人の自殺者がでた。 中央銀行家・白川方明 (しらかわ・まさあき) はこう説明した。 「関連するあらゆる個々の経済主体の 既得権益に関係しているので、 制度の枠組みを変えて構造改革を推進するのは 容易ではありません。」 日銀副総裁・山口泰(やまぐち・ゆたか)は こう語った。 日銀は金融緩和によって 差し迫ったリスクの緩和が生じるというディレンマに直面し、 その結果 究極的な解決策の採用を遅らせることになった。」 1990年代以降、 政府は大蔵省の権力構造の多くの部分を 解体し始めた。 他方で、日本銀行の影響力は 著しく増大した。 (ニュース) つい先日あなたが書いていたことですが、 あなたにとっては 「日本銀行が大蔵省から切り離されて独立し、 他国の中央銀行と 対等の立場に置かれることは疑いない」とのことですね。 なぜそれほど確かなのですか。 大蔵省は少なくとも法的には 日銀を統制してきたのですが、 すっかり信用を失ってしまいました。 大蔵省が現在非難されているのは、 バブルを創出し 不況を長引かせた責任を問われ、 他にも多くの問題が最近日本で起こっているためです。 ところが日銀のほうは、 これまでずっと国民の批判の眼差しを浴びないまま、 今度はこれを利用して、こう言おうとしています。 そうだよね、大蔵省は悪かった。 だから私たちには今や独立することが必要なのです。 リチャード、どうもありがとう。 東京のジャーディン・フレミング証券会社の チーフ・エコノミスト、リチャード・ヴェルナーでした。 1994年に 日銀総裁の地位を退いて間もなく、 三重野は あるキャンペーンに乗り出し さまざまな協会や利益団体に対して演説した。 彼は日銀法を変えるよう働き掛けた。 彼の論法は、日銀が間違った政策を取るよう 大蔵省が圧力をかけた、と 微妙にほのめかすものだった。 将来このような問題を回避するうえで、 日銀は完全な合法的独立を承認される必要があるというのだ。 三重野によれば、 中央銀行を独立させることは、 歴史によって育まれた人類の智慧を反映するものだった。 1998年、通貨政策は 新たに独立した日銀の手に委ねられた。 ではあなたは、政治家もエコノミストも もっと多くの通貨を創造するよう日銀に圧力を さらにもっとかけるべきだというのですね。 でも多くの評論家は、それは中央銀行の独立に 干渉することだというでしょう。 その点をどう考えますか? まさにその通りです。 これは中央銀行の独立に干渉することであり、 まさに我々が必要としている事柄なのです。 政治体制の変革 バブルがはじけた後に続いた数多くのスキャンダルも 自由民主党による1955年体制を 破滅させることになった。 かつての体制では 政治家は異なる政策を掲げて角逐を演じることはなかった。 政策は官僚が作り、 政治家は公共事業で地方の支持基盤をなだめることに 専念していたにすぎない。 1997年10月には 戦後史で初めて 経済を刺激するためのすべての政策構想が、 官僚ではなく政治家によって出された。 次いで2001年初め 新しいタイプの政治家が権力の座に押し上げられた。 (ニュース) 小泉純一郎が次期総理の本命馬として現れ、人気を博していることから、 日本国債市場は 今月最大の反騰を示しました。 小泉純一郎が総理大臣となった。 彼の人気と政策は、しばしば マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンにたとえられた。 小泉の政策スローガンは単純なものだった。 「構造改革なくして経済回復なし」 2001年のジェノヴァ・サミットで彼は言った。 「改革せず景気が先だと言って 景気が回復したら、 改革する意欲がなくなってしまう。 だから 「構造改革なくして成長なし」 という方針通り選挙後もやっていこうと思っている。」 2001年の一年間、 「構造改革なくして経済成長なし」のスローガンが 日本の各テレビ局で ほとんど毎日放送された。 . . . . . . . 今や誰もが構造改革が必要だと信じています。 経済回復のためには、日本型資本主義を 廃棄する必要があります。なぜでしょうか。 あらゆる政策を試みても、どれも うまくいかなかったようです。 だから悪いのは日本式の経済体制で、 これとは縁を切ったほうがよいというわけです。 経済の改革 日本はその経済体制を アメリカ型市場経済に切り替えつつあった。 そのことはまた、 経済の中心が、 銀行から株式市場に移されつつあることを意味した。 預金者を誘惑して銀行預金を 危険な株式市場に投資させようと、 改革論者達はあらゆる銀行の預金保証を撤回し、 税制面のインセンティブで株式投資を優遇した。 アメリカ型株主資本主義が広まると、 失業者数が大幅に増え、 所得と富の格差が拡大した。 自殺と暴力犯罪件数も増加した。 次いで2002年、日銀は 銀行がバランスシートを悪化させ、借手に担保権を行使せざるをえなくなるよう 努力を強化した。 この時まで柳沢伯夫(やなぎさわ・はくお) 金融相は、日銀が吹き込んだ 銀行への税金投入の提案に 抵抗を続けていた。 これによって銀行を事実上国有化して 経営を引き継ぎ、 企業に融資の支払いを要求する権限を利用すれば、 多数の大企業の倒産の引き金が引かれる。 柳沢氏は、正式に総理大臣によって罷免され、 竹中平蔵と交替した。 竹中は、借手の抵当流れを増やす 日本銀行の計画の支持者だった。 竹中氏は、銀行を国有化できるようにするため、 銀行のバランスシートを劇的に悪化させるための政策を 実施しようとしていました。 竹中は銀行政策を監視する 作業部会を任命したが、 これには2人の前日銀職員が含まれていた。 その一人、木村剛(きむら・たけし)は、 会計方針の変更を実施することをただちに要求した。 これを実施すれば銀行のバランスシートが悪化し、 国有化は避けられないことになる。 東京の著名なエコノミスト森永卓郎は、力説した。 日銀が吹き込んだ竹中の提案には 本来のうま味はあまりない。 ところがその代わりに、 不良資産の購入を専門とする米国ハゲタカファンドを 主に利することになるのだ。 これらのファンドが直面した困難は、 20万件を上回る倒産があるにもかかわらず、 関心の対象となるほどの大きな企業は ほとんど倒産しないことだった。 木村と福井が倒産計画に対する支援を表明した際、 木村は、不良資産の証券化のアドバイスを行う 民間企業を経営し、 福井は、世界最大のハゲタカファンド事業主の一つである ウォールストリートの投資会社、 ゴールドマンサックスのアドバイザーだった。 福井氏、 また福井氏に助言を与える三重野氏と、三重野氏に助言を与える前川氏、 お判りでしょう、 これらの人たちが私が著作で述べている日銀のプリンスの一部です。 記録によると、1980年代と90年代に彼らは 金融政策の目標が何だと言ったでしょうか? 経済構造を変えることです。 ではどうやってそれをするのか。そう、それには危機が必要なのです。 そしてそれこそが、彼らが実際にした仕事なのです。 リチャード、時間がありません。ここで打ち切ります。 内部告発者 . . . . . . . 日本銀行では 窓口指導による銀行の貸出割当に責任を負う部署を 営業局といった。 では誰がこの局を任されていたか? バブル期の1986年から1989年にかけて 営業局のトップにあったのは 福井俊彦氏でした。 現在日銀総裁の福井氏が バブルを創った人物なのです。 日銀総裁になったとき、 福井はよくこう言った。 「古い成長モデルを破壊して 新しい時代に合ったモデルをつくっているところです。」 あらゆる点で彼らは成功しました。 彼らの目標のリストをご覧になると、 目標をすべて達成しています。 つまり、― 大蔵省を破壊し分割する 独立の監督官庁 [金融庁] を手に入れる 日銀法を改正して 日銀の独立そのものの達成する 製造業からサービス業へ融資の重点を移し 深層から経済構造が変わるよう工作する 無差別に市場開放と規制緩和を行い、 片っ端から一切合財を 自由化し私有化する. 1920年代には 日本の経済は多くの点で今日の米国経済と似ていた。 競争は激しく、強引なやり方で雇用と解雇が行われ、 大企業は乗っ取り合戦を繰り広げた... 官僚による統制はほとんどなく、 強力な株主達が高配当を要求し、 企業の資金は、銀行からではなく、市場から調達された。 だが戦後期を通じて 日本経済はこれとはまったく逆だった ― 官僚による高度の統制下で、競争はカルテルによって制限され、 融資は銀行によって行われ、株は持ち合いだった。 株主の力は弱められ、 企業の乗っ取りは皆無で、労働市場は凍結して 終身雇用と年功序列の社会がそこにあった。 不況を終わらせ業績を改善するため、 日本は福祉資本主義から 株主資本主義に戻らなければならないと主張された。 それにもかかわらず、 なぜ貿易収支が従来一貫して大幅な黒字であり続けた国が、 さらに競争力をつけるため 経済体制を変える必要があるのか、 依然として分からなかった。 東南アジア危機 日本は、1990年代に世界大恐慌以来の 最も深刻な不況を経験したアジアで 唯一の高パフォーマンス経済国ではなかった。 1997年、東南アジアで急激な成長を遂げた「タイガー」諸国の通貨は、 米国ドルとの固定為替相場を維持することができなかった。 これらの通貨は1年以内に60~80パーセント暴落した。 この値崩れの原因は1993年にさかのぼる。 この年、 アジアのタイガー経済国である韓国、タイ、インドネシアは、 資本勘定と国際金融機関の設立に関する規制について 強引な緩和政策を実施した。 これによって企業部門と銀行部門は 海外から自由に融資を受けることができるようになった。 これが可能になったのは 戦後期になって初めてのことだった。 実際には、アジアのタイガー経済国が海外から資金を借りる必要は まったくなかった。 国内投資に必要なすべての資金は 自国で創造することができた。 実際には、資本移動の自由化は 海外からの圧力によるものだった。 1990年代の初期から、 IMF、世界貿易機関、米国財務省が これらの国々に働きかけて 国内企業が海外から借金することを認めさせたのだ。 この3者は、新古典主義経済学が 自由市場と自由な資本移動によって経済成長が達せられることを 証明したと主張した。 ひとたび資本勘定が規制緩和された時点で、 中央銀行は国内企業が外国から融資を受けるよう、 逆らいがたいインセンティを創出する仕事に取り掛かった。 自国通貨で借り入れると 米国ドルよりも 高くつくようにしたのだ。 (世界銀行・河合正弘氏) 国内の実勢金利は 米国ドルの金利よりも高く、 為替レートは事実上固定されていました。 為替レートを維持すると言ったのは 政府と中央銀行でした。 その通りです。タイ中央銀行と 他の東アジア諸国の中央銀行は、 為替レートの調整に抵抗しました。 為替レートを守るという信号を 発信しようとしました。 中央銀行は、公式声明で 米国ドルとの固定為替相場を維持することを強調した。 借手が、当初借りたよりも多くを自国通貨で 返さなければならなくなる心配を 無用にするためだ。 タイにいた時、私は まっすぐタイ銀行に行って尋ねました。 「非公式に信用を指導する仕組みが何かありますか?」 私がこれを尋ねると驚いていましたが、 自分が日本にいた時の研究から、 ことによると、何か似たものがあるだろうと思いました。 私の質問に答えたのは 若い職員で、 どんな政略が関係しているか承知していなかったかも知れませんが、 彼は言いました。「ええ、ええ、その信用の仕組みは私たちの銀行にあります。」 銀行は貸出を増やすよう命じられていたが、 生産部門の借入需要が 少なくなっているという事態に直面していた。 この部門の企業が、海外からの借入の インセンティブを与えられていたためだ。 このため銀行は、最後の手段として リスクの高い借手への貸出を増やさなければならなかった。 中央銀行が 自国通貨を米国ドルに固定することに同意したため、 輸入が縮小し始め、 経済競争力が低下した。 ところが国際収支統計で輸出として勘定される国外債によって これらの国々の経常収支は 維持されていた。 投機家が タイバーツ、韓国ウォン、インドネシア・ルピーを売り始めると、 各国の中央銀行は 固定相場を維持しようとして 外貨準備を事実上すべて使い果たすに至ったが、 これは無益な試みとなった。 このため海外の資金提供者に 為替相場が割高となっているタイミングで資金を回収する機会をたっぷりと与えることになった。 これらの国々の中央銀行は、外貨準備を使い果たした場合、 債務不履行を避けるため IMFの援助を求めなければならなくなることを心得ていた。 一たびIMFが関与すると ワシントンを本拠とするこの機関が何を要求するか、 中央銀行は知っていた。 過去30年の間、 このような場合同じことが要求されてきた。 それは中央銀行の独立だった。 7月16日、 タイの財務大臣が日本に緊急援助を求めるため 空路で東京にやって来た。 この時、日本には2,130億ドルの外貨準備高があった。 これはIMFの資金の総額を上回る。 日本側は援助を厭(いと)わなかった。 ところがワシントンは日本が主導権を発揮しようとするのを阻止した。 アジアの通貨危機の発生に対するどのような解決策も、 IMFを介してワシントンから提示されなければならなかった。 (ニュース) 2か月にわたる投機攻撃の後 タイ政府はバーツを変動相場制に切り替えました。 通貨救済に乗り出すIMF 現在に至るまでIMFは 多くの難問をかかえる タイ、インドネシア、韓国の経済に対して ほぼ1200億ドルの援助を約束しています。 危機に見舞われた国々にやって来るとすぐに IMFチームは中央銀行の内部にオフィスを設置し、 そこから、降伏条件に等しい事柄が何であるかを指図した。 IMFは、中央銀行と銀行による信用創造に対する制限、 大規模な法改正、金利の急激な 引き上げを含む 一連の政策を要求した。 金利が引き上げられると、 高リスクの借手達が債務の履行を怠り始めた。 タイ、韓国、インドネシアの銀行制度は 大量の不良債権に悩み、 事実上破綻した。 さらに銀行ばかりか、健全な企業でさえ ますます信用が収縮することから苦しみ始め、 企業の倒産が急増した。 失業率は、1930年代以来、最高の水準に上昇した。 (ニュース) 経済の不調に悩む国々の救済でIMFが果たす役割が、 激しい論争の対象となっています。 IMFはアジア経済危機を悪化させていると 非難する人々もいます。 (マハティール首相) たとえマレーシアの経済を破壊しなければならないとしても、 彼らはそれを、自分たちが正しいことを証明するために行うでしょう。 IMFは役に立ちませんでした。 IMFは その政策の結果がどのようなものとなるかをよく知っていた。 韓国の場合、 IMFは非公開の詳細な研究を準備し、 金利が5%まで上昇した場合 韓国企業の倒産が何件になるか 計算していた。 IMFの韓国との最初の合意では 金利をちょうど5%上げることが要求された。 明らかにIMFの政策の狙いは、アジア諸国の 経済の回復を創出することではありません。 まったく別の隠れた意図を達成しようとしています。 それは、これらの国々の経済・政治・社会体制を 変えることなのです。 実のところIMFの取引条件だと、韓国、タイのような国は、 通貨供給を再び拡大させることができなくなります。 では経済危機をますます悪化させていると。う~ん、面白いですね。 しかもIMFには隠れた意図があるというのですね。 そうですね、それほど隠されているというわけではありませんが。 IMFは、銀行から土地に至るまで 海外の事業者が何でも購入できるよう、 法律を変更しなければならないと、アジアの国々に明らかに要求しているわけですから。 また実のところ、IMFの取引条件に従えば、銀行業界の資本構成の変更は 外貨を使うことによってしか 行えません。 ところが、これはまったく必要のないことです。 なぜならば、これらの国に中央銀行がある限り、 紙幣を印刷しさえすれば銀行業界の資本構成を変更できるのですから。 この目的のために外貨は必要ありません。 ですからIMFの意図は、明らかにアジアを海外事業者の権益のために強引に抉じ開けようという算段なのです。 IMFは、経営難の銀行を救済せず、 その代わりに閉鎖して、不良資産として安く売り払うよう要求した。 それもしばしば大手の米国投資銀行に売却せよというのだ。 (ニュース) タイで起った好ましい結末の一つは、 金融会社56社の主要な資産が 競売に出されることです。 あなたの考えでは その56社の一部のオーナーには 資産を買い戻すことが許されると思いますか? IMFは、ほとんどの場合 銀行が海外投資家に売却されなければならないことを 同意書に明記するよう 指図した。 (ルービン米財務長官) 財政の安定を回復するうえで これらの改革プログラムが確かな鍵になることを 強調したいと思います。 (ニュース) 初めて韓国は、 IMFの指図に応じる大きな歩みとして 5つの銀行を閉鎖しました。 銀行の閉鎖や 合併と買収の結果、 都市銀行の数が減り、 海外の戦略的投資家が一般受けしています。 これは注目に値する変化です。 アジアでは、政府が経済不振に陥った金融機関を生かすために 緊急援助を行うことは 認められなかった。 ところがこの一年後に同様の危機が アメリカ本国を襲った時、 同じ機関がとった対応はこれとは異なるものだった。 ロングターム・キャピタル・マネジメントの救済 コネチカット州に本拠を置くヘッジファンド、 ロングターム・キャピタル・マネジメントは 富裕な個人と機関だけを顧客とし、 顧客から50億ドルを集めて 25倍のレバレッジを効かせ 世界の銀行から 1,000億ドルを超える資金を借りて 運用を行っていた。 損失が出て、融資を行った銀行を 徐々に根底から揺るがせる兆候があらわれ、 これらが互いに連動して米国の金融システムと 経済が危機にさらされる恐れが生じると、 米国連邦準備銀行はデフォルトを避けるため ウォールストリートと国際銀行に頼って カルテルと同様の 緊急援助のしくみを編成した。 おっしゃる通り、確かにワシントンとニューヨークの物の見方は どのようにも融通のつく代物に思えますね。 アジア諸国に「金融機関の救済はしない」ようにと言って まもなくしてニューヨークのヘッジファンドの ロング・ターム・キャピタル・マネージメントが ほとんど破綻状態になると、 すぐに救済の仕組みが組織された。 これはアジア諸国に対して言ったことと矛盾しています。 (アジア開発銀行・吉富勝氏) でも公的資金はこのヘッジファンドの救済に使わなかったと言っていますね。 よく知られているように、打ち合わせは連邦準備銀行の内部で行われたのです。 なぜアメリカは、自国の領土内では 同じルールを施行するつもりはないのに、 自由市場の名において 外国に負担となる要求を課すのだろうか? 日本とアジアの危機の例は どのようにすれば経済的所有権の再分配が促進され、 法律、経済構造、政治が変革されるよう 危機を工作することができるかを説明している。 今日では、これらと同様の出来事が ユーロ圏エリアに起り、その影響が広まっている。 欧州債務危機 ユーロ通貨圏の国々には 自国の通貨を使用する権利がなく、 通貨発行権は欧州中央銀行に委譲されている。 (ニュース) スタジオにリチャード・ヴェルナーさんがお越しです。 英国サウサンプトン大学で教授を務められています。 欧州中央銀行に対するあなたのアドバイスは? 明日会議が開かれますが、あなたならばどんな発言をするでしょうか。 そうですね、この場合もやはり、金利よりも信用創造量に重点を置いて 取り組まないといけません。 欧州中央銀行には、過去の誤りから学ばなければならない多くの事柄があります。 なぜならば、過去において信用創造をほんとうに十分注意して 観察したとは思えないからです。 スペイン、アイルランドでは、欧州中央銀行の監視のもとで 大幅な信用の拡大 [=金融緩和] が行われました。 金利はもちろんユーロ圏と同じですが、 信用サイクルの量がとても異なっています。 ユーロ使用地域の金利は同一ですが、 2002年に、欧州中央銀行はドイツ連邦銀行に対して 史上最大額の信用収縮を指図し、 アイルランド中央銀行にはまるで将来を気遣う必要がないかのように、 紙幣を印刷するよう指図しました。 そうすると何が起こるでしょうか。 金利が同じだから、成長も同じ? 違います。 ドイツは不況になり、アイルランドは突然好景気にわきました。 2004年から、欧州中央銀行の監視下で アイルランド、ギリシア、ポルトガル、スペインでは1年に20%の割合で 銀行の信用創造が増加し、 不動産価格が急騰した。 銀行の貸出額が減少すると、 不動産価格が暴落して 住宅開発業者が破産した。 アイルランド、ポルトガル、スペイン、ギリシアの 銀行業界は支払不能となった。 欧州中央銀行は、これらの国々のバブルを防ぐことができた。 バブル後の銀行経営と経済の危機を終わらせることもできた。 だが各主権国家が、 欧州連合に財政権限と予算権を委譲するなどの 大きな政治的譲歩を行うまで、 これを行うことは拒否された。 スペインとギリシアの両国では 若年層の失業が50%にまで達し、 多くの若者が海外に職を求めざるをえなかった。 ギリシアの納税者が教育費を支払ったギリシア人医師たちが 現在ではドイツで働いている。 欧州中央銀行の決定機関の審議は、秘密である。 単に民主的な公開討論会や議論などによって 欧州中央銀行に影響力を行使しようとすることも、 マーストリヒト条約によって禁じられている。 欧州中央銀行は、 個々の国家の法律と司法の権限外の、 上位に位置する国際機関なのだ。 上級職員は外交パスポートを携帯し、 欧州中央銀行内部のファイルと文書は いかなる警察権力も検事も 調査や押収を行うことができない。 エコノミストの間で、欧州中央銀行は 世界で最も大きな権限を持ち、透明性が最も少ない 銀行の一つとしてよく知られている。 それにもかかわらず前総裁を務めた ジャン-クロード・トリシェの この問題に対する取扱いは、単に問題はないと主張して 押し通したにすぎなかった。 「欧州中央銀行は、世界で最も透明な 中央銀行の一つであり、 この領域で最先端の中央銀行制度を 定義するうえで一役買ってきた...」 彼はそう言い張った。 世界経済フォーラム - ダヴォス、スイス エコノミストのリチャード・ヴェルナーです。 トリシェ氏に質問します。 お尋ねしたいのは、 マーストリヒト条約または欧州中央銀行定款のどこに、 欧州中央銀行の仕事は、構造改革 または他の何らかの政治課題を支援することだと述べられているのでしょうか。 私は非常に明確に申しましたし、我々は常にたいへん明確に述べていたことですが、 この領域で私達は、過去において何ら責任を負っていませんでした。 我々には考えがあり、それを発言します。 たぶん、暮らし向きがもっと良くなることを、我々の側から 一般の人々に対して説明するうえで、一役買うことができるとすれば、 ヨーロッパがこの構造改革の実施に乗り出すための 助けとなることでしょう。 これはたいへん重要なことで これについてはコンセンサスがあります。 経済状況の診断で、 この点について非常に多数の人々の 意見の一致があります。 欧州委員会は 投票による選出によらないメンバーから成り、 統一国家に付き物のあらゆるものを具えたヨーロッパ合衆国を築くことを 狙いとする集団だ。 この委員会の関心は、欧州の個々の政府を弱体化し、 民主的な議会の影響力を弱めることにある。 マーストリヒト条約で頼みの綱だった中央銀行の独立を擁護する証拠は、 結局、他ならぬ欧州委員会自体が委託した、 たった一つの研究から 引き出されたものだったことが分かる。 1992年に『一つの市場、一つの通貨』という表題で公刊されたこの研究は、 中央銀行を独立させれば インフレが低くなることを証明しようとしたものだ。 この研究は、以来、オックスフォード大学の研究者、ジェームズ・フォーダーが、 望まれる結果を得るための 誤魔化 (ごまか) しであったことを 証明して現在に及んでいる。 私たちが聞かされている中央銀行の話は つじつまが合いません。 中央銀行の働きが、彼らが私たちに信じてほしいものと異なる 証拠があるのです。 世界中に存在する中央銀行がもつ権限は、 大きな影響を与えるにもかかわらず、ほとんど理解されていない。 中央銀行は、しばしば独立し、責任を負わず、目立たない。 陰で運営が行われているが、 その行動は私たちすべてに影響をおよぼす。 世界のほとんどすべての国にある中央銀行と IMFは、これを達成するうえで多くの貢献をしました。 完全に独立し、 事実上いかなる民主的な機関に対しても 責任を負いません。 議会に対する責任は 通常大きなものではなく、事実上意味がありません。 日本銀行にせよ、 米国連邦準備銀行、イギリス銀行にせよ、 欧州中央銀行にせよ、 中央銀行の誤魔化しの例は山ほどある。 米国では、1920年代に 銀行が通貨を創造して これを投機家に提供することが奨励された結果 不況が起った。 これによって自由を愛するアメリカ市民が説得され、 強力な国家統制が行われない 分権的な連邦制度ではうまく行かないと 考えられるようになった。 1990年代に日本人が説得されたのは、 それまで少なからぬ繁栄と平等をもたらしていた 日本の経済体制が、 いわゆる自由市場経済体制への変革を 必要とすることだった。 中央銀行家達は、日本の変革がまだ完了しないうちに 再び攻撃を仕掛け、IMFの先導によって アジアのタイガー経済国に侵入した。 現在の欧州債務危機は、 中央銀行の誤魔化しの今ひとつの例だ。 構造改革が必要だとする 民意を形成するため 故意に不景気を創り出し、 そのうえ不必要にこれを長引かせることは、 権力の乱用とされるのでなければならない。 一般の人々は、これほど犠牲の大きな不正直なやり方で 巧みに操られ、踊らされることを本当に望んでいるでしょうか? 字幕  阿呆神望  (シャンティ・フーラ: https://shanti-phula.net/ja/ )